
「立嶋篤史、思い出を挙げればキリがない」の第12回目。僕の20年間にわたる記者生活の中で、最も印象深いキックボクサーである立嶋篤史のことを書いていきたい。90年代を疾走した本物のヒーローである。
1994年7月30日、名古屋。この大会は『格闘技通信』の何周年だかの記念イベントとして、当時同誌の編集長だった谷川さんの出身地で開催されることになった。ライバル誌『ゴング格闘技』の編集長だった僕は、格通のイベントというのが面白くなく「ちっ」と言いながらも取材しないわけにはいかず、名古屋へ向かった。
メインイベントは立嶋の全日本フェザー級王座初防衛戦。挑戦者は地元・名古屋在住でサウスポーのホープとして期待されていた現役大学生の佐藤孝也だ。当時の佐藤は若手の中で勢いがあって注目される存在ではあったが、飛ぶ鳥を落とす勢いにあった立嶋が勝つだろう、というのが大方の予想だったはず。
しかし、同じ初防衛戦で前田憲作に敗れた実例があり、編集部では「また負けちゃうんじゃないの?」という声もあった。「さすがに同じ失敗を2度もしないだろう」とボクは言っていたのだが、不安があったのも事実。というのも、前田戦での立嶋があまりにも固かったからだ。
佐藤との試合は、なんと2Rで立嶋のKO負け。地元での劇的な王座交代劇となった。佐藤のハイキックに立嶋は完全に倒されてしまったのである。場内にはいつまでも佐藤の入場曲である『ブレードランナー』のテーマ曲が流れていた。
この試合後、『フルコンタクトKARATE』で山田編集長は「立嶋は初対決のサウスポーに弱い」というレポートを書いていた。それを読んだボクは「そうかな?」とかなり疑問に思った。確かに立嶋はサウスポーが得意ではない(と言うか、サウスポーが得意なオーソドックスということ自体が少ないと思うが)が、敗因は別にあったと思う。(この項続く)