元プロボクシングWBC世界バンタム級チャンピオンの辰吉丈一郎が、10月26日(日・現地時間)タイ・バンコクのラジャダムナンスタジアムで2003年9月以来、5年ぶりの復帰戦を行った。
日本ボクシングの真のスーパースターが5年の沈黙を破った試合地は、バンコクだった。しかもムエタイ興行の中にむりやり付け加えられた試合。メインイベントですらない。
そのリングに立った男、辰吉丈一郎も好きでこの場を選んだのではないだろう。そうする
しかなかったのである。日本のボクシングを統括するJBC(日本ボクシングコミッション)は、現在すでに38歳になり健康状態にも疑問を抱かれる辰吉に選手としてのライセンスを与えていない。
「引退選手」とされて日本ではボクシングの試合ができないのである。それでもボクシングを続けたい彼は、JBCの手が届かないタイで試合をするという手段をとった。
日曜のラジャダムナンスタジアムといえば、スター未満の若手ムエタイ戦士たちが少ない観客の中で黙々と試合をこなすのが常である。2階席、3階席にほんのわずかのタイ人客がいるだけ、それがこの日だけはリングサイドにおよそ400人の観客が集まった。
ほとんどが日本人。取材記者の数もあきれるほど多い。彼らのお目当てはもちろんムエタイではない。辰吉丈一郎だけを見に来たのである。
当初の予定から一試合繰り下げられた第3試合、リングに上がった辰吉は四方を埋めた日本人ファンに一回ずつ丁寧に頭を下げた。その表情は落ち着き払っている。
対戦相手はパランチャイ・チューワッタナ。タイ国内ランキングでは4位になっているものの、いままでの戦績は2勝5敗、5敗はすべて日本でKO負けしたものだ。しかも本来の階級は辰吉のバンタムより一階級下のS・フライ級の選手、多くの人が辰吉の圧勝を予想していたはずだ、彼が万全な
コンディションならば。
試合開始。序盤の辰吉は多くの期待とは裏腹に、慎重な立ち上がりを見せた。意外にもパランチャイが左ジャブで攻め込んでくる。
辰吉は自分の感覚を確かめようとしているのか19歳のタイ人に好きなように攻めさせウィービングでかわし、時間の経過とともに徐々に主導権を握っていく。
パランチャイがカウントにならないスリップダウンとはいえ初回から尻餅をついてしまったのは、もと世界チャンピオンの圧力に耐えきれない証拠だろう。しかし辰吉もときどき相手のパンチを食らっていたのを見逃してはいけない。
第2ラウンド。今度は辰吉が開始から左ジャブを突きながら攻めに出ると、パランチャイはまたもスリップダウン。
どうやら試合感覚を取り戻したらしい辰吉は、左から右へと正統なスタイルでタイ人を追い込んでいく。「タツヨシ」コールが沸き上がる場内で期待されるのは日本のカリスマボクサーの華麗なパンチだが、どこか切れ味が鈍く見えた、と書いたら厳しすぎるだろうか。
それでも両者の地力の差はいかんともしがたく、左フックを受けてパランチャイはついにダウン、8カウントで踏みとどまりはしたが、辰吉の容赦ない攻撃に再び倒れたところでレフェリーが試合を止めた。すかさず相手を介抱に駆け寄る辰吉、こうした姿は昔のままだ。
試合後、控え室で日本からの取材記者たちに囲まれて「(ブランクの)5年は長い。久しぶりいうより、まるでデビュー戦のような気分やった」と語る辰吉に関係者が携帯電話を手渡す。
「もう一回やらなわからん」。
相手は日本で待つ夫人かもしれない。「もっともっと試合をしたい。もっと楽しみたい」と語る彼の気持ちはすでに次戦に向かっているようだが、その先に果たして何が待っているというのか。
2ラウンドTKO勝利、結果だけを見れば辰吉の見事な復活劇である。だが、あえて辰吉ファンに水を差すようなことを言わせてもらえば、初めてのタイでの試合は決して手放しで喜べる内容ではなかった。内容の渋さを自覚しているのか「言い訳にしたらあかんけど、リングのマットがヨレヨレで……」と告白する辰吉。この発言は正しい。
もともとムエタイの試合のために組むリングは首相撲からの倒れ込みでも危険がないように、純粋のボクシングのリングのマットの張りとは強度が微妙に違って当然なのである。
それでも、本当に強い頃の辰吉は記者たちの前でこんな発言をしていたのだろうか。あきらかに格下であるパランチャイのパンチを何発かまともにもらったのは、単なるブランクのせいだけではなく彼の衰えの証明というべきではないだろうか。
一夜明け、タイのムエタイ&ボクシング専門紙の日刊ムアイサイアムは赤く腫れた顔をゆがめながら戦う辰吉の写真を1面に使った。見出しは「タツヨシ、にがいKO勝ち」。
文・写真=吉澤晃(サイアムスポーツ)
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