FIGHTING TV サムライの格闘技・プロレス実況で御なじみの清野アナウンサー。幼い頃からプロレスの実況アナウンサーを志し、その夢をかなえた熱血派だ。これから格闘技・プロレスの実況アナウンサーを目指したい人は必読! いかにして清野氏は夢を実現させたのか。
清野茂樹(きよの・しげき)
1973年、兵庫県神戸市出身
1996年、青山学院大学文学部卒業
FM広島でアナウンサー・DJとしてキャリアをスタートさせ、
同局でプロレスのテーマ曲を流す番組を企画、
民放連番組コンクール・ラジオ部門で優秀賞を獲得した
2006年よりフリーアナウンサーとなる
現在はFIGHTING TV サムライにてDEEP、新日本プロレスなど
格闘技やプロレスの実況アナウンサーを務める |
■テレビの前にラジカセを置いて録音して聞いていた
ーー清野さんがアナウンサーを志したきっかけから聞かせてください。
「元々、小学校2年生の時からプロレスが大好きで、当時の古舘伊知郎さんの実況を僕は金曜夜8時のテレビにかじり付くようにして見ていました。俺もいつかはヘッドセットマイクを付けて、戦いのワンダーランドを喋りたいって気持ちが8歳の時からあったんです」
ーープロレスラーになりたいではなく、プロレスの実況アナウンサーになりたかったんですね。
「そうなんです。当時はビデオがなかったですから、プロレスの名勝負をテレビの前にラジカセを置いて録音して聞いていたんです。つまり実況を録音して音だけを繰り返し繰り返し聞いていて。だから小学校の時からそのフレーズを、落語を覚えるように覚えていました。
金曜日の夜にテープを繰り返し聞いて覚えて、翌日に学校へ行ってそれを友だちの前で披露するんです。例えば第1回IWGPの決勝戦だったら“おーっと危ない、背後からアックスボンバー。そして額を鉄柱に打ち付けてしまった猪木。猪木危ない。山本さん、膝ですか? 足首ですね。猪木、足首を捻ったか。さあー猪木、魂のゴング鳴る! 危ない、アックスボンバー、三又の槍!”これ、倒れるところなんですけれど。完コピーでこういうフレーズはいっぱい覚えていました」
ーーまずは古舘さんのモノマネから入ったわけですね。
「小学校から大学までずっとプロレスばかり見ていまして、いよいよ就職活動をしなければならなくなった時に、やっぱり子供の時になりたかったアナウンサーをもう一度目指してみようかなとなったんですよ。そのきっかけも大学の時に、プロレスラーを大学に呼んでトークショーの司会をやったんですよ。船木誠勝さんとか、川田利明さんを呼んで1時間くらいトークのお相手をしてみたいなことをやっていました。
友だちにも評判がよくて、その気になって本格的にやってみようと思ったのが大学4年生の時です。当時はスカパー!とかもなかったので、アナウンサーになるためには地上波のテレビ局に入るしかなかったんですよ。ところが、これがなかなか思いのほか簡単に入れなかったんですよ(笑)。そんなに難しいものだったんだ、と。僕も放送研究会をやっていたわけでもないし、ハッキリ言って認識が甘かったです。
でも乗りかかった船だし、始めたものはもう今さら後には退けなくて、募集のある順番に試験を受けていたんですよ。その中で大学の掲示板に広島FM放送の社員アナウンサー募集という紙が貼ってあって、受験地が東京都千代田区のFM放送と書いてあったんです。これ広島って書いてあるけれど、東京で試験が受けられるんだなと思って軽い気持ちで行きました。
それで行ったらスタジオでマイクテストがあって。最初に志望動機を聞かれたんですが、“私はプロレスの実況がやりたくてアナウンサーになりたいです”と言ったら、他の局では全く相手にされなかったんですが、そこでは相手にしてもらえたんです。“キミ、プロレスの実況が出来るの? そこでやってごらん”と言われて、さっきみたいな完コピーをやったんですよ。
その時は藤波辰巳VS橋本真也の試合実況をやったんですけれど、ちょうどその年の4月に広島グリーンアリーナでやったIWGPのタイトルマッチなんです。広島の局だしそれをやってやれと思ってやったら大ウケして、それで合格(笑)」
ーー最初はラジオ局のアナウンサーだったんですか?
「そうです。22歳で大学を卒業して、そのまま新卒で広島に行きました。でも、いざ入ってみると朝から晩まで音楽漬けの生活なんですよ。ラジオだし、FMだし。また僕は音楽担当になってしまって、音楽番組を任されることになったんです。1日で何十枚というCDを聞くんですけれど、聞けないですよ。だから早送りをしながらバーッと聞いて、ビルボードとか音楽雑誌を読んで、ミュージシャンにインタビューしたりとか朝から晩まで音楽ばかり10年やりました。
そうすると、段々と広島でやれることはおよそやり尽くしてしまったんです。誰もがそうだと思うんですが、サラリーマンを10年間やると一通りの仕事はやるわけですよ。音楽の仕事も楽しかったですけれど、もうだいぶこの仕事も覚えたし、次の段階に行きたいなと思った時、元々自分がなぜアナウンサーになったかと言うと、俺はプロレスをやりたかったんだと。
でも、僕が30歳を過ぎた頃はプロレスよりも格闘技の人気が盛り上がっていたので、そこで……
清野茂樹インタビュー内容
■テレビの前にラジカセを置いて録音して聞いていた(前半)
※以下GBR会員の方のみご覧になれます。
■テレビの前にラジカセを置いて録音して聞いていた(後半)
■前田日明、阿部兄からいただいた言葉に励まされた
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